近江八幡散策(1)(加西市美術家協会研修旅行)
2009/06/01/Mon
★平成21年5月31日(日)、加西市美術家協会の研修旅行で滋賀県へ!8時頃に加西市を出発し、10時過ぎに最初の目的地である近江八幡に到着。現地のボランティアガイドさんの案内により八幡堀周辺の散策をスタート!

▲「朝鮮人街道」・・・・江戸時代には一般に鎖国の時代と思われていますが、朝鮮と琉球とは信を通わす外交のある国「通信の国」とし、中国とオランダとは貿易船の来航を認める「通商の国」と定めました。その朝鮮からの使節「朝鮮通信使」が通った道が「朝鮮人街道」と呼ばれ今もその名を残しているそうです。

▲「市立資料館 市指定文化財 旧伴家住宅」
伴庄右衛門は江戸初期に活躍した八幡商人で屋号を扇屋といいます。寛永年間に東京日本橋に出店し、麻布・畳表・蚊帳を商いました。5代目の伴蒿蹊は18歳で家督を継ぎ、大坂淡路2丁目に出店。学問にも興味を持ち、本居宣長、上田秋成、与謝蕪村らと親交のある国学者でもありました。以後も、伴家は繁栄を誇りましたが、明治維新等の激動期に逆らえず明治20年に終焉したそうです。
今に残る旧伴家住宅は7代目伴庄右衛門能尹が伴庄右衛門家本家として、文政10年(1827)より天保11年(1840)の十数年をかけて建築したものですが、明治時代になって当時の八幡町に譲渡してから小学校・役場・女学校と変遷しました。戦後は近江兄弟社図書館として使用され後に近江八幡市立図書館となり、移転に伴い平成9年にその役目を終了しました。その後の整備事業を経て、平成16年4月より市立資料館の一部として開館。

▲▼新町通りなどの市内に残る古い商家の町並みは、県下で初めて国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されたそうです。その新町通りの江戸末期から明治にかけて建てられた家々は、屋根に防火用の壁である「うだつ」をあげています。豪商の邸宅では家を火災から守るために、屋根にうだつを」あげました。当時の佇まいを残す家並みの塀越しにのぞく「見越しの松」が通りにひときわ風情を添えています。

▼旧西川家住宅(国・重要文化財)

アメリカミッション建築(YMCA・関西学院・主婦の友社etc.)、メンソレータム「現・メンターム」普及(近江兄弟社の創設)、キリスト教伝道、教育・医療・福祉事業に尽くし、天皇人間宣言をマッカーサーに働きかけ、琵琶湖畔にユートピア建設を夢みた、知られざる偉人メレル・ヴォーリズの業績と今に生きる精神。

▲「朝鮮人街道」・・・・江戸時代には一般に鎖国の時代と思われていますが、朝鮮と琉球とは信を通わす外交のある国「通信の国」とし、中国とオランダとは貿易船の来航を認める「通商の国」と定めました。その朝鮮からの使節「朝鮮通信使」が通った道が「朝鮮人街道」と呼ばれ今もその名を残しているそうです。

▲「市立資料館 市指定文化財 旧伴家住宅」
伴庄右衛門は江戸初期に活躍した八幡商人で屋号を扇屋といいます。寛永年間に東京日本橋に出店し、麻布・畳表・蚊帳を商いました。5代目の伴蒿蹊は18歳で家督を継ぎ、大坂淡路2丁目に出店。学問にも興味を持ち、本居宣長、上田秋成、与謝蕪村らと親交のある国学者でもありました。以後も、伴家は繁栄を誇りましたが、明治維新等の激動期に逆らえず明治20年に終焉したそうです。
今に残る旧伴家住宅は7代目伴庄右衛門能尹が伴庄右衛門家本家として、文政10年(1827)より天保11年(1840)の十数年をかけて建築したものですが、明治時代になって当時の八幡町に譲渡してから小学校・役場・女学校と変遷しました。戦後は近江兄弟社図書館として使用され後に近江八幡市立図書館となり、移転に伴い平成9年にその役目を終了しました。その後の整備事業を経て、平成16年4月より市立資料館の一部として開館。

▲▼新町通りなどの市内に残る古い商家の町並みは、県下で初めて国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されたそうです。その新町通りの江戸末期から明治にかけて建てられた家々は、屋根に防火用の壁である「うだつ」をあげています。豪商の邸宅では家を火災から守るために、屋根にうだつを」あげました。当時の佇まいを残す家並みの塀越しにのぞく「見越しの松」が通りにひときわ風情を添えています。

▼旧西川家住宅(国・重要文化財)

アメリカミッション建築(YMCA・関西学院・主婦の友社etc.)、メンソレータム「現・メンターム」普及(近江兄弟社の創設)、キリスト教伝道、教育・医療・福祉事業に尽くし、天皇人間宣言をマッカーサーに働きかけ、琵琶湖畔にユートピア建設を夢みた、知られざる偉人メレル・ヴォーリズの業績と今に生きる精神。